多摩川の畔で4代にわたり果樹を作り続ける
梨の生産量は全国的に減少傾向にあり、それは神奈川県でも変わらない。それでも同県川崎市では、IPMを取り入れる生産者が増えている。その先駆者が、川崎市多摩区で白井果樹園を営む白井正壽(しらい・まさとし)さんだ。

梨の生育具合を確認する白井さん
「曾祖父の時代から水稲の傍ら、この多摩川の畔で梨を作り始めました。当地域は、祖父の時代までは水田が多かったのですが、徐々に梨を生産する農家が増えていき、当園も父の時代に、本格的に果樹園へかじを切ることになりました。昭和30年代のことです」
白井果樹園の圃場面積は、梨80a(幸水30a・豊水30a・あきづきとかんたが20a)、ぶどう20a、みかん40a。自家消費用の水稲が20a。働き手は、白井さんと奥様、ご両親。「収穫と花粉付けの時期には、姉がパートで手伝ってくれています」という典型的な家族経営だ。
園地はマンションや住宅、企業の敷地などに囲まれており、絵に描いたような都市型農業と言える。販売先は直販(EC)による地方発送が8~9割を占め、自身が運営する直売所やJAの直売所にも出荷している。
白井さんの梨園は、市長賞や県知事賞、2013年度には農林水産大臣賞も獲得しており、消費者からも業界関係者からも高く評価されている。
都市型農業に共通する複数の悩みを解決したIPMの姿
そんな白井果樹園では、環境保全型農業やIPMという単語が広く使われる前から、草生栽培を実践してきた。草生栽培とは、下草を除草せずに園地を管理する方法。土壌侵食の防止、有機物補給といった効果の他、雑草の根による深耕効果が期待できる。
「深耕効果によって土壌を柔らかくしようと草生栽培を始めたところ、さまざまな効果が得られました。雑草が生えると、刈払機などで除草するのが一般的ですが、住宅地では機械の騒音が気になります。また表土を覆う草が無いと、ほこりが舞いやすくなります。こうした騒音とほこりの悩みが、草生栽培によって大幅に軽減されました。この他、薬剤散布は乗用スプレーヤーで行いますが、圃場間を移動する際、道路に土を落としてしまい、これを掃除する手間がありました。草生栽培にするとタイヤに土が付着しにくく、掃除をする回数が減りました」
草生栽培に続いて、白井さんは交信攪乱フェロモン剤を導入した。交信攪乱フェロモン剤を設置すると、合成された性フェロモンが漂う。これに害虫のオスは惑わされてメスにたどり着くことができず、害虫の世代交代を阻止することができる。
平成初期には、被害総額数百万円もの雹(ひょう)の被害を受けたことから、網の目の小さい多目的防災網(ネット)を張った。これにより大きな害虫が入らなくなった。
ここであらためて、IPMを復習しておこう。農水省は「IPMとは、利用可能な全ての防除技術の経済性を考慮しつつ慎重に検討し、病害虫・雑草の発生増加を抑えるための適切な手段を総合的に講じるもの」としている。IPMといえば生物農薬(天敵)の利用と考えがちだが、そうではない。経済性を考慮しつつ、適切な防除を総合的に実施すること、それがIPMである。白井果樹園では、物理的防除と化学的防除を組み合わせて、着々とIPMを進めていた。
薬剤抵抗性を強めたハダニ対策へ、生物農薬を投入
白井さんはハダニの天敵である生物農薬も導入している。6年ほど前、近隣の東京都稲城市の梨生産者が天敵を導入したことを聞き付け、神奈川県農業技術センター横浜川崎地区事務所に相談したことがきっかけだ。同センターの担当普及員である笹田昌稔(ささだ・まさとし)さんが、当時の状況を説明してくれた。

ナシ園内でハダニ類と天敵の密度バランスを観察する笹田普及員
「当センターでは農業生産者の方の困りごとに応じて情報を提供し、共に解決を目指しています。川崎市の梨園は住宅地に隣接しているため、風通しが悪い園地が少なくありません。そうした園地ではハダニが多く発生します。このハダニに対して、当地の防除暦では7回+αの薬剤散布で対応してきましたが、ハダニの薬剤抵抗性が強くなっていました。A園では効く剤が、B園では効かないといった状況もあり、栽培暦で対応できなくなっていたのです。そのタイミングで、白井さんたちと一緒に天敵導入に挑戦することになったのです」(笹田さん)
最初は、天敵をいつ放飼すればどれくらい定着するのか、といった情報を得ながら、農業生産者と試行錯誤しながら、天敵を温存できる薬剤を防除体系に組み込んで行った。すると今度は、ハダニ以外の害虫(シンクイムシ)が増えてしまった。そこで黄色灯を導入した。こうして今では、天敵を組み込んだ防除暦が形になった。
「地域全体として、天敵を意識して薬剤を散布してくれていますから、土着天敵も増えてきています。天敵を大切にしよう、という意識が高まり、定着している実感があります。天敵利用とは、餌と捕食者の関係を防除に活用する、ということ。ですから、餌である害虫が増え過ぎていたら、農薬をまかねばなりません。定期的に圃場に入ってハダニを見つけて、この感覚を養わなければ、天敵利用は上手く行きません」

提供:神奈川県農業技術センター横浜川崎地区事務所 笹田昌稔氏
一方で、天敵を使うこと自体が目的ではないと、笹田さんは言葉を続ける。。「天敵は収入を増やすための手段。薬剤散布は10aで約5,000円ですから、4回散布すると約2万円になります。これを天敵製剤にすると2万円程度。散布回数を4回よりも減らすことができれば収支が合う計算になります。川崎は殺ダニ剤散布が7回という生産者さんも居ましたから、コストメリットを出しやすかった。都市部だから薬剤散布時には周辺への配慮も必要なので、それも導入意欲につながったと考えられます」
天敵を活用したIPMで多摩川梨を生産し続ける
天敵を活用したIPMに取り組んだことを、白井さんはどのように感じているのだろうか。それを本稿のまとめとしたい。
「一人では、ここまで早く技術を習得できなかったと思います。それぞれ生産状況の異なる8人の有志で同時に取り組んだからこそ、技術獲得のスピードが上がりました。化学農薬を減らして天敵を温存する防除体系にすることで、土着天敵が増えるなど、既に導入していた草生栽培との相乗効果も現れ、ハダニ抑制効果が一段と高まりました」
天敵利用による防除の効果に勇気づけられた白井さんは、黄色灯(LED)を導入してシンクイムシの活動抑制を行うようになった。黄色灯には、シンクイムシの交尾や活発な活動を抑える効果がある。
「天敵は葉の裏にまでハダニを食べに行ってくれます。当初は半信半疑で始めた天敵利用ですが、今では安心感さえ感じます。この精神的な負担の軽減が、天敵を導入した最大のメリットです。都市部では薬剤散布に当たって周辺住民の方々への配慮が欠かせませんから、その負担が減る、という意味もあります」と白井さん。もちろん、散布する薬剤や水、時間を削減することにもつながっているという。
「都市部で農業をしている人なら誰しもが感じていることだと思いますが、周辺環境の変化、温暖化、資材高騰など、徐々に農業を続けることが難しくなっています。当地の多摩川梨も生産が縮小している中で、IPMや生物農薬といった新しい技術を取り入れながら、頑張ってきました。これからも地域に調和する農業を続けることで多摩川梨の価値を高めながら、自信をもって農業を続けていきたいです」と語ってくれた。
取材協力
白井果樹園
神奈川県農業技術センター横浜川崎地区事務所