本記事は筆者の実体験に基づく半分フィクションの物語だ。モデルとなった方々に迷惑を掛けないため、文中に登場する人物は全員仮名、エピソードの詳細については多少調整してお届けする。
読者の皆さんには、以上を念頭に読み進めていただければ幸いだ。
就農希望の若者から電話が!
農業に憧れ、思い切って農村という〝異世界〟に足を踏み入れたた僕、平松ケン。新規就農という冒険の序章は右も左も分からず、地域のベテラン農家たちに振り回される日々だった。それでも何とか農業を軌道に乗せ、ついには地域農業の頂点とも言える「部会長」のポジションにまで登り詰めた。
「これでやっと、自分らしい農業ができる!」
「ラスボス」のポストに就き、そう意気込んでいたのも束の間、僕は早々に現実を突き付けられることになる。就農してまだ10年余りの新参者に過ぎない僕に対して、地域の風当たりは相変わらず冷たい。時には厄介事を押し付けられ、何かあれば真っ先に文句が飛んでくる。部会長という肩書は、いわば農業界の中間管理職。責任はあっても自由は無い、そんなポジションだった。
「部会長なんてやるもんじゃないな……何も良いことなんて無い」
畑作業の最中に愚痴をこぼす僕の頬を、冬の乾いた風が冷たく撫でる。不意にスマホが震えたのはそんな時だった。ポケットから取り出すと、画面には見慣れない番号が表示されている。
「誰だろう?」
首を傾げつつ、通話ボタンを押す。「もしもし?」
受話口から返ってきたのは、思いの外爽やかな声だった。
「はじめまして。農業に興味がありまして、お電話しました」
電話の主は、どうやら若い男性らしい。今は会社員として働いているが、近い将来、新規就農を目指しているという。僕が書いているブログを読んで興味を持ち、「ぜひ一度会って話を聞きたい」と連絡をくれたらしい。
「そうですか。じゃあ、一度畑を見学してみますか?」
僕が提案すると、彼は迷うことなく「はい!ぜひそうさせてください!」と即答した。その熱意は、受話口越しにも伝わって来るほどだった。
その場で見学の日程を決め、僕たちは電話を切った。彼と実際に会うのは数日後。僕はスマホを手に持ちながら、ほんの少しだけワクワクした気持ちを抱いていた。
どうやらイメージと違ったらしく……
見学当日、農作業を始める8時半ごろになると、一台の車が畑へ滑り込むようにやって来た。車から降りてきたのは、背筋をピンと伸ばした若い男性だった。年齢は20代半ばといったところだろうか。高身長で180センチはありそうだ。冬の北風が吹き抜ける中、その長髪がふわりと揺れる。
「おはようございます。お電話した楠木です」
彼は明るい声であいさつした。
「おはようございます。平松です。じゃあ早速、畑を案内しましょうか?」
「はい、宜しくお願いします!」
大根を定植した畑を歩きながら、僕は楠木さんの話に耳を傾けた。彼は現在、繊維関係の商社で働いているという。アウトドアが趣味で、自然と触れ合う時間をこよなく愛しているらしい。その延長線上で、「自然を相手にする仕事がしたい」と農業に興味を持つようになったのだという。
「高齢化が進む農業は、衰退の一途をたどっているんですよね。これまでの経験を生かして農業を変えたいし、この地域をもっと盛り上げていきたいんです!」
彼の話しぶりから感じたのは、「農業をしたい」という純粋な憧れよりも、むしろ「社会貢献」に対する強い意欲だった。情熱的ではあるが、どこか理想が先行しているような印象を受ける。
しばらく話を聞いていた僕は、ふと彼に質問を投げかけてみた。
「で、これまで農作業をした経験はあるの?」
「いえ、全くないですね」
「さすがに家庭菜園で野菜を作ったことくらいはあるよね?」
「それもないです。全くの素人なんです」
彼からの答えに、僕は思わず眉をひそめる。一度も野菜を育てたことがない? 農業に興味があると言うなら、せめてプランターで何かを育てたことくらいはあるものだと思っていたが……まさか完全なゼロからとは。無謀と言うほかない。
僕は少し声のトーンを落として、言葉を選びながら話を続けた。
「農業を盛り上げたいっていう気持ちは分かるけど、うちの部会はそこまで困っているわけじゃないんだよ」
「そうですか……。でも、困っている農家さんは多いんですよね?」
彼も少し声を落として、こう切り込む。
「まあ、そういう農家もいるだろうけど、実はもうかっている人も多いんだよね。たくさんの土地を持っている資産家もいるし、そういう人たちはお金には全然困っていなかったりするんだ」
「うーん……」
楠木さんの表情が、少しずつ曇っていくのが分かった。彼の描いていた農業の世界が、現実とはかけ離れていることに気付き始めたのだろう。
「あとね、“農家を助けたい”っていう姿勢で飛び込んでくるのはあまりおすすめしないな。そうじゃなくて、“新人として一から学ばせてもらいたい”という気持ちで来ないと、受け入れてもらうのは難しいよ」
理想と現実のギャップを少しでも理解してもらおうと正直に話したが、楠木さんの表情は更に硬くなっていった。
「今日はありがとうございました。勉強になりました」
そう言い残し、彼は車に乗り込んだ。初めに訪れた時の勢いはすっかり消え失せていて、その背中はどこかうなだれているように見えた。そして案の定、彼からの連絡が再び来ることはなかった。
今度はものすごい熱量の中年男性が登場!
「やっぱり、あの若者からの連絡はないかぁ……」
畑の一角で手を動かしながら、僕はぽつりと呟いた。彼が畑を訪れてから、もう1カ月が経つ。
「ちょっと厳しい現実ばかり伝えすぎたかな。でも、甘いことばかり言っても本人のためにはならないしな……」
胸の内で反省と納得を繰り返しながら、いつものように土を触っていると、ポケットの中でスマホが震えた。またしても見慣れない番号からだ。
「もしもし。平松ですけど?」
「平松さんですか。私、小西と申します。農業を始めるに当たって、ぜひ相談に乗っていただきたくて……」
受話口から聞こえてきたのは、穏やかながらも押しの強さを感じる声。今度は年上と思われる男性からだった。話しぶりは柔らかいのだが、こちらの反応を待つ間もなく次々と話を進めてくる。聞けば、既に市役所の農業振興課にも相談済みらしい。彼の熱量に押される形で、僕は市の担当者を交えて面談をする約束をしてしまった。
後日、指定された日時に市役所を訪れると、市の担当者の隣にがっしりとしたスーツ姿の男性が座っていた。彼が小西さんだ。僕が部屋に入ると、すぐに椅子から立ち上がり、満面の笑顔を見せながら近付いて来た。
「これは平松さん!お忙しい中ありがとうございます!」
その勢いに少し圧倒されながらも、僕は握手を交わした。小西さんは50代半ばくらいだろうか。落ち着いた風貌だが、目にはまだ若々しい情熱が宿っている。話を聞くと、彼は大手通信会社で部長職を務めているという。それを聞いた瞬間、僕の中で「いかにも」という言葉が浮かんだ。全身から自信がにじみ出ている。
「平松さん、ぜひ農業がしたいんです。力を貸してくれませんか!」
話し始めると、彼の熱量は更に加速していった。目を輝かせながら、勢いよくこう言い放つ。
「僕なら2000万円は一気に稼げると思うんだよ!」
とにかくすごい熱量だった。市の担当者もその勢いに押されている様子だった。現在も相応の給与を得ているようだが、「もっと稼ぎたい」というのが就農を目指す理由だという。
定例会の場であいさつするも、まさかの失踪!
「確かに、農業で稼ぐことはできますよ。でも、もう少し詳しく計画を聞かせてもらえませんか?」
僕がそう切り出すと、小西さんは待ってましたとばかりに語り始めた。
実家がこの地域にあり、先祖代々受け継いできた農地もある。就農のハードルはそこまで高くないという。しかし、彼の所有する土地の広さを考えれば、いきなり売上2000万円というのはどう考えても無謀だった。
「さすがに最初から2000万円を目指すのは厳しいと思いますよ。まずはもう少し低めの金額を目標にはじめてみませんか?」
率直にそう伝えると、小西さんの顔が一瞬曇った。だが、すぐに表情を整え、やや不満げな声で言った。
「分かりました。当面はそれで良いでしょう」
しぶしぶ、といった様子だったが、一応は納得したらしい。
話を聞いているうちに、どうやら彼は僕の部会に所属するベテラン農家ともつながりがあることが分かってきた。つまり、僕に相談する前に、既に根回しをしていたということだ。
「ここで変に断っても、あとあと面倒なことになりそうだな……」
そう考えた僕はその後、市役所の担当者と何度か打ち合わせを重ねた。小西さんと面識があるというベテラン農家にも話を通し、最終的に部会員が集まる定例会で小西さんにあいさつしてもらう段取りをつけた。
そして迎えた定例会当日。
「今後お世話になります。小西です。よろしくお願いします」
会の冒頭、小西さんは深々と頭を下げ、丁寧にあいさつをした。その姿に、会員たちも「おお、新しい人が来たか」と、それなりに好意的な反応を見せていた。
しかし——
翌日から、小西さんは突然、音信不通になった。
市役所の担当者が連絡してもつながらない。こちらから電話をかけても応答なし。メールを送っても返事はない。
「あれ、もしかして……逃げた?」
嫌な予感が脳裏をよぎる。
その後も何度か連絡を試みたが、彼が再びこちらに姿を見せることはなかった。理由は分からない。ただ、考えられるとすれば、やはり「思い描いていたように稼げない」と気付き、嫌気が差したのかもしれない。
こんなうわさも耳にした。
——彼にはまだ小さい子供が居て、家族には就農の話をしていなかった。計画を奥さんに打ち明けたところ猛反対され、断念せざるを得なくなったらしい——
「ま、長く農業をやっていれば、こういうこともあるか……」
僕は苦笑しながら空を仰いだ。結局、わざわざ時間を割いてベテラン農家に話を通し、定例会の場まで設けて調整を進めてきた僕のメンツは丸潰れになった。
レベル23の獲得スキル「農家を振り回す新規就農希望者にはご用心!」
メディアに登場したり、ネットで発信をしていたりすると、新規就農を希望する人から「農家になりたい」「一度会って話が聞きたい」と言われることは多い。ただ、大半の人が「勝手なイメージや理想を抱いてやってくる」というのが率直な印象だ。畑を見学してもらい、新規就農に向けた段取りを少しずつ進めていた矢先、いきなり連絡が途絶えるなんてケースもあったりする。
とりわけ多いのが「自分が農業を変えるんだ」「地域を盛り上げるんだ」といった社会貢献を目的にしている人。もちろんその志自体は悪いことではないが、「異業種のノウハウを生かして農業を助ける」といった上から目線の話がとても多いように感じる。また、「農業はもうかる」と信じ込んで飛び込んでくる人も少なくない印象だ。確かにやり方によってはもうけることもできるが、サラリーマンと同じように収入が約束されているわけではなく、根底に「農業が好き」という気持ちがないとミスマッチを起こす可能性が高い。
こうした理想が先行している就農希望者に現実を伝え、自身を省みてもらうきっかけを作ることも「ラスボス」たる者の務めだろう。この手の新規就農希望者を相手にするのは「ただ振り回されるだけ」に終わるケースは多いが、「そういう役回りなのだからしょうがない」と切り替えることが肝要だ。
もしあなたが新規就農を希望する側なら、先輩農家に相談する際はこのあたりの事情を理解した上で話を聞きに行くのが賢明だろう。